「普通」とは何ですか?
「せめて普通の子どもと同じように」や「みんなができることはできるように」などと言われることがある。
お母さんやお父さんの気持ちは理解できる。
背景には言葉だけでは表現できない色々な思いがあるのだと思う。
それでも、子どもに「普通」や「みんなと同じ」を強いることは間違っていると考えている。
「普通とは何ですか」や「みんなとは誰ですか」とお聞きする。
「普通は平均くらいということ」と言うひとがいる。
テストの結果、平均点が算出される。テストの成績が「普通」とは、平均点付近に位置していることを指していることが多い。
しかし、例えば、平均点が62.3点であった場合、平均点のひとは存在しない。
上下、どの程度の範囲が「普通」であるかは主観的な評価になる。
1945年にアメリカで行われた「Search for Norma」コンテストを知っていますか。
主に21〜25歳の白人アメリカ人15,000人の身体測定データに基づき、平均的な体型の像を作成し、女性像を「Norma」、男性像を「Normman」と名付けた。
その像を「調和の取れた完璧な形態」と称賛し、Cleveland Health Museumが、地元新聞社の協賛のもと、「Norma」に一致する体型の女性を探すコンテストを開催した。
3,863人の女性がエントリーしたものの、完璧に一致する人は一人も存在しなかった。
現在、「Search for Norma」コンテストは優生学的思想や人種的偏見を推進するものと批判されている。
身体測定を行った15,000人の女性はすべて若い白人であり、黒人、イタリア系、東欧系、ユダヤ系など非白人のデータや白人でも障害のあるひとなどのデーターは排除していた。
「完璧なアメリカ人女性の体型は、健康で障害などのない白人の体型である」という考えを推進する目的があったからだ。
思い描く「普通」は、「幻想」であるかもしれない。
「みんなとは大部分と同じ意味」と言うひとがいる。
「大部分」は集団により異なる。
世の中には様々集団がある。
パリ2024オリンピック陸上競技の100m走の参加標準記録は男子10.00秒、女子11.07秒である。
100m走に参加する人たちの「大部分」は参加標準記録以内で走れる。
全国小学生陸上競技交流大会での100m走では、5年生であれば男女とも15.00秒前後、6年生であれば男子は13.00秒前後、女子は14.00秒前後で「大部分」の子どもは走れる。そうでなければ大会に参加できない。
文部科学省「体力・運動能力調査」の50m走の記録から、5年生の男子は18.00秒前後、女子は18.50秒前後、6年生の男子は17.00秒前後、女子は17.70秒前後と推定されている。
勉強においても、
例えば、開成中学の合格率80%の偏差値は、SAPIXでは68に対し首都圏模試では78である。
SAPIXで合格率80%の偏差値50の学校が首都圏模試では60前後であったりする。
合格率80%の偏差値の学校は、男子の場合、SAPIXでは30まであるのに対し首都圏模試では36である。
「母集団が違うのだから当たり前」と思うかもしれない。
その通りである。
あなたの「みんな」はどこの「みんな」なのだろうか。
日本では同調圧力が強いため、「みんな」がしばしば使われる。
しかし、思い描く「みんな」には実体も、意味もないものかもしれない。
「普通」や「みんな」は、主観的であり、相対的でもある概念である。
思い描く「普通」や「みんな」は幻想であるかもしれない。
「普通」や「みんな」にこだわることに意義があるとは思えない。
目指すことは全く問題ない。
しかし、練習すれば、誰でも、オリンピックや全国小学生陸上競技交流大会に出場できる訳ではない。
しかし、勉強すれば、誰でも、開成や筑駒、桜蔭などの学校に入れる訳ではない。
当たり前と思われるのではないだろうか。
大切なことは、「過度な負荷」を親がかけることにより、成果がでないばかりではなく、子どもが心に怪我をするという点にある。大怪我をすることもある。
筋トレにおいて、適切な重量を選ぶことが大切であるのと同じである。
子どもに対して「普通」や「みんな」にこだわることは、あなたの「幻想」を追いかけさせているだけかもしれません。
デメリットしかないかもしれません。
